2010年10月21日木曜日

合田學著 「生駒家家臣団覚書 侍帳の見方について」

嘗て、生駒家家臣の末裔の家では、必ずと言って良いほど、父祖に関わる言い伝えが残っていた。然し、旧来の研究者たちは、生駒家分限帳(生駒家家臣分限ノ記、生駒家組分侍帳、生駒家給人帳等々)に氏名の記載が無い場合、その伝聞を取り上げないことが多かった。為に、数多くの貴重な伝承が失われてしまった。残念なことである。
この間の生駒藩政史料公開作業の中で、そうした伝承が伝える侍名を多数確認した。一例として 、加藤氏のケ-スを紹介する。既刊の侍帳では、加藤二郎右衛門(三百石)としか記されていなかった為、城下絵図に、加藤五左衛門と、大身の侍たちの屋敷区画(高松城内堀端)に名が記載されているにも拘らず、史家は、加藤五左衛門を考察の対象外とした。ところが、讃州御国中村切高惣帳の明地高で算出すると、彼は、少なくとも千三百三十七石以上の侍として存在していたことが確認される。
亦、侍帳には、当然、生駒家直臣の名前しか記載されていないことを銘記すべきである。例え、高録を食んでいても、陪臣であれば、その名は記載されない。そして、その例は多数ある。
今ひとつ、鷹匠衆についても、諸大兄の注意を喚起しておきたい。古来、鷹狩りは、軍事演習であり、兵用地誌作成の為のものであった。その鷹匠衆に、香川、香西の名があるといえば、諸兄は何とお考えか。この辺りから、今一度、生駒家の讃岐武士に対する処遇を考えてみようではないか。

参考
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」http://kousakashikenshoukai.blogspot.com/2010/05/blog-post.html

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