2017年12月27日水曜日

生駒藩政史料  PDFファイルにて、頒布を開始

讃州御国中村切高惣帳 表計算篇



生駒家家臣分限ノ記 PDF版  18,720円

讃州御国中村切高惣帳 PDF版  14,720円

讃州御国中村切高惣帳 表計算篇 PDF版  16,720円

生駒家給人帳・知行帳 PDF版  14,720円

増補 讃岐に於ける新田開作 PDF版  18,720円

増補 生駒宗家寄進寺社領の存在した寛永期讃岐の郷村 PDF版  18,720円

豊田郡志 PDF版  17,720円

三野郡志 PDF版  16,720円

多度郡志 PDF版  9,360円

仲郡志 PDF版  16,720円

宇足郡志 PDF版  9,360円



上坂氏顕彰会史料出版部

Mail    : kousakashikenshoukai@gmail.com

2017年9月16日土曜日

上月八郎左衛門

阿波の国、三加茂、この地は、植生が豊かで、三加茂の大楠と称される、それはそれは大きな楠が現存する。そして、山間部に一歩踏み込めば、岩陰遺跡が点在する。縄文期の遺構である。そして、近世に入ると、此処に、上月(こうづき)文書なるものが現れる。さて、上月氏、あの播磨守護職、赤松氏の一門衆である。何故、阿波の国にと奇異な感がするかもしれない。実は、豊臣政権の四国侵攻の後、蜂須賀氏を阿波の国主に据えた際、赤松氏にも阿波の住吉に一万石を与えたのである。豊臣政権の施策の特性として、一武将に一国全部を与えなかったことがある。例えば、讃岐生駒氏に関しては上坂氏、阿波蜂須賀氏に関しては赤松氏といった具合である。阿波に関しては、他にも、稲田氏、森氏等の与力が知られている。ただ、関ヶ原の合戦以降、状況が一変し、先に記した赤松氏は滅亡する。ただ、その支族、上月氏の名が、拙宅に伝わる「生駒家家臣分限ノ記」に記されている。赤松氏改易後、移って来たのであろうか。それとも、生駒氏が山陽筋にいた折に抱えられたのであろうか。何だか、興味が湧いてきた。少し調べてみたく思う。
合掌。


上月八郎左衛門 (役職:御供番) 
知行高 312石 
知行所 香東郡吉光村1044斗、香西郡笠居之郷100石、香西郡中間之郷10785

2016年11月7日月曜日

川北六左衛門

川北六左衛門、この人は、あの西讃岐を領有した守護代、香川氏に繋がる人であった。生駒家に仕えるに辺り、名を変えたようである。生駒家改易の後、浪々、名を香川に復している。
知行地も佳き所を配され、亦、高松城下郭内に屋敷を拝領している。地方の屋敷が何処にあったかは不明であるが、知行所を頼りに調査は可能であろう。
合掌。


合田學著 「寛永年中讃州生駒家知行帳  グラフ篇      分冊-Ⅲ」より


 
 合田學著 「生駒家給人帳、生駒家知行帳、寛永期讃岐の知行形態」より


 合田學校訂 「生駒家家臣分限ノ記」より


合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」より

2016年10月17日月曜日

生駒家家臣分限ノ記に見る軍役衆

侍帳(給人帳、知行帳、分限ノ記、分限帳、御給帳、規式帳等々、様々な名称で記される家臣団名簿)には、各大名家の有姓無姓の直臣の名が全て記されています。亦、大身(高禄)の家臣は、自ら数多くの家臣を抱えているのですが、それらの人々は、大名家から見ると陪臣となりますので、先に記した侍帳等の文書には記されません。
ここでは、拙宅に伝わる讃岐生駒藩の侍帳、生駒家家臣分限ノ記を見ていくことに致しましょう。
映画「天と地と」の合戦シーンで、上杉謙信旗下の柿崎和泉守率いる騎馬隊、或いは付随する足軽隊が登場、佳き武者振りを見せてくれましたが、そうした戦闘集団を、讃岐生駒藩の場合、九組、常備していました。所謂、大番組と称する戦闘ユニットで、各組、総知行高一万石平均で構成されています。動員兵力は、戦場の遠近にも依りますが、三百人から五百人、こうした戦闘集団が九つ、これ以外にも、予備が三組、そして、槍隊、弓隊、鉄砲隊、或いは、作事・普請といった工兵隊から、軍役衆が構成されていました。
合掌。













2016年9月15日木曜日

生駒藩政史料のPDF化、及び、電子媒体での提供

讃州御国中村切高惣帳表計算篇


上坂氏顕彰会が刊行した生駒藩政史料のPDF化を開始いたしました。
今後、電子媒体での提供が可能となります。
合掌。

合田學著 生駒家給人帳、生駒家知行帳、寛永期讃岐の知行形態(第四版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳、生駒家寛永知行帳(第三版)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記、校訂者補遺、デ-タベ-ス編(第四版)
上坂眞信著 生駒家家臣団の解体(第二版)
合田學編纂 生駒家家臣分限ノ記 テキスト、グラフ篇-1(第二版)
合田學編纂 生駒家家臣分限ノ記、五種の生駒家侍帳に於ける記載の異同
合田學編 生駒藩組分侍帳(第三版)
合田學著 生駒家襲封期高松城下家臣団屋敷図 郭内編
上坂眞信著 寛永年中讃州諸郡知行主総覧(第三版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 表計算篇(第三版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 表計算篇(第二版)
合田學著 寛永年中讃州生駒家知行帳 グラフ篇(第三版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 分析篇 郡-Ⅰ
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 分析篇 郡-Ⅱ
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 分析篇 郡-Ⅲ
合田學著 四種の生駒家侍帳に於ける記載の異同、生駒宗家直轄地一覧(第二版)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記 表計算篇-1 五十音順(第二版第二刷)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記 表計算篇-2 組分(第二版第二刷)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記 表計算篇-3 給知高順(第二版第二刷)
合田學著 新稿 讃岐に於ける新田開作
合田學著 讃州生駒家に於ける給人知行の概要(第四版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 グラフ篇
合田學著 寛永期讃岐の新田開作
合田學著 生駒宗家寄進寺社領の存在した寛永期讃岐の郷村
合田學著 明知行の存在した寛永期讃岐の郷村
合田學著 讃州大内郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州寒川郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州三木郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州山田郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州香東郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州香西郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州南條郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州北條郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州宇足郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第四版)
合田學著 讃州仲郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第四版)
合田學著 讃州多度郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州三野郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州豊田郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第四版)
合田學著 讃岐に於ける新田開作(第二版)

2016年8月20日土曜日

生駒家家臣分限ノ記に名が記されている寺

生駒家家臣分限ノ記に名が記されている寺を纏めてみた。寺名は、文書の末尾附近に、寺社知行、御初尾米、寺領米ニテ渡スといった三つの項目に分けて、記されている。讃岐国内に数多存在した寺の内、二十五の寺のみが選ばれている。讃岐一国を視野に於いての寺の格付け、興味深いものがある。
合掌。


一、寺社知行

三百六石五斗 松尾領
百五十石 勝法寺<興正寺別院>
百石 法泉寺
百石 玉龍院<京都、玉龍院妙心寺>
六十三石八斗 国分寺
六十石 白峯領五十石 弘憲寺
五十石 誕生院<善通寺>
四十三石三斗二升 屋嶋寺
四十石 けんぎょう與<寳壽院神宮寺>
二十石 千手寺<専修寺>
十八石二升 根香寺
十八石 見性寺
十石 観音領<志度寺>
九石三斗 まんだらじ<曼陀羅寺>
八石 石清尾宮坊<宝寿院>
六石六斗 興昌寺
三石九斗七升 萩原寺
二石五斗 菩提寺<菩提院>
二石一斗 財田中乗覚院<高橋氏>
二石 柞原寺
一石九斗 福成寺
一石五斗四升 持寳院<本山寺>
一石 覚城院
九斗六合 高林寺<専立寺>


一、御初尾米


切米十石 萩原寺 

切米五石 薬師坊<鞍馬>
切米五石 窪之坊<高野山> 
切米五石 地寳院<高野山>


一、寺領米ニテ渡ス


切米四十石 寒松院

切米三十石 香林寺 

2015年2月13日金曜日

観音寺城(上坂勘解由)、引田城(生駒左近)

生駒藩政期、讃岐の地には、生駒宗家の居城であった高松城と丸亀城の他にも、幾つかの支城が存在した。
以下、「教西物語」に記された支城、及び支城主名を列挙する。
合掌。


観音寺城  (上坂勘解由、一万石)
引田城  (生駒左近)




付記
観音寺城は、別名、高丸城とも呼ばれていた。城址は、観音寺市殿町にある。尚、城址及び城主名が記された元禄時代の観音寺古地図が今日まで伝わっている。古地図中、「太閤様御與力 上坂丹波守 古城 今田地也 酒屋町ノ内 元和年中御亡」の記載がある。
合掌。




参考
豊田郡柞田之郷
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2012/09/blog-post_24.html

赤松氏++++ 阿波一万石(置塩領)
http://kanonji.blogspot.jp/2015/01/blog-post_8.html

2014年12月6日土曜日

高島郡誌に見る生駒親正公

滋賀県高島郡教育会から昭和二年(1927年)に刊行された「高島郡誌」を紐解く機会を得た。文中、551頁から552頁にかけて、生駒親正公に関する記述があったので、参考までに、ご紹介申し上げる。
合掌。



2014年3月13日木曜日

高吉系藤堂氏と讃岐生駒氏

藤堂宮内少輔高吉(実父は丹羽五郎左衛門長秀)関係の史料を見る機会を得た。
同史料には、藤堂高吉の室は、生駒正俊の娘と記されている。依って、高吉と讃岐生駒家四代藩主高俊は、義兄弟となる。
亦、高吉の娘(名は世見也)は、讃岐生駒藩寄合組、生駒河内の室と記載されている。
合掌。

2013年11月6日水曜日

生駒氏に依る肥後検地

仙石氏と尾藤氏が讃岐入府と同時に九州への出兵を余儀なくされたことは、一般に知られていることである。実は、その後、讃岐国主となった生駒氏も、例外では無かった。国人一揆の為、佐々成政(さっさなりまさ)が除封された肥後の検地に出向いたのである。このことは、成恒(なりつね)文書を通して伝えられてきた。それにしても、打ち続いた戦乱の後での立て続けの出兵である。当時の讃岐の疲弊は、如何ばかりであったろう。先人たちの苦労を思うものである。
以下、中津古文書所収「成恒文書」、肥後文献叢書所収「新撰事蹟通考」「拾集昔語」から、当該箇所を抽出、参考史料としてアップロードする。
合掌。


中津古文書所収「成恒文書」





肥後文献叢書所収「新撰事蹟通考」




肥後文献叢書所収「拾集昔語」

2013年11月5日火曜日

文禄期伏見城下の生駒藩邸




上記三葉の城下屋敷図は、吉田東伍編「大日本読史地図(富山房1935年刊)」に収録された文禄頃の伏見桃山図(第四十三図)より、讃岐生駒藩の藩邸を中心にトリミングしたものである。生駒讃岐、長宗我部土佐守等の名を垣間見ることが出来る。
合掌。

寛永期江戸城下の生駒藩邸



上記ニ葉の城下屋敷図は、吉田東伍編「大日本読史地図(富山房1935年刊)」に収録された寛永年間江戸荘図(第四十六図)より、讃岐生駒藩の藩邸を中心にトリミングしたものである。
合掌。


補遺
慶長期の江戸図では、生駒讃岐と記されいる。
合掌。

2013年1月10日木曜日

生駒宗家が寄進した寺社領の一覧

合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(上坂氏顕彰会1999年9月11日第四版)」より、生駒宗家が寄進した寺社領の一覧を抽出、画像データとテキストでアップロードする。
亦、合田學著「生駒宗家寄進寺社領の存在した寛永期讃岐の郷村(上坂氏顕彰会2002年4月28日初版)」より、刊記を抽出、以下、掲載する。
合掌。
                                                                                         







一、寺社知行

三十石 引田八幡領 <譽田神社>
二十石 白鳥八幡領
三十五石 水主宮領
一石五斗四升 入野八幡領 <石清水八幡社>
三石六斗 津田浦宮領 <石清水神社>
十石 観音領 <志度寺>
二十石 千手寺 <専修寺>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
四十三石三斗二升 屋嶋寺
五斗五升 東片本八幡領
三石七斗六升 木太天王領 <牛頭天王>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
一石五斗 池田八幡領
二石四斗二升 植田八幡領 <藤尾八幡宮>
一石二斗 本濱天神領 <中黒華下天満宮>
十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
八石 石清尾宮坊 <宝寿院>
百五十石 勝法寺 <興正寺別院>
三石 松縄宮領 <熊野権現>
五十石 一之宮領 <一宮田村定水大明神>
三石七斗四升 由佐八幡領 <冠纓宮>
百石 八幡領 <不詳>
十八石二升 根香寺
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
二石二斗 飯田宮領 <飯田八幡宮>
百石 法泉寺
二百五十石 伊勢領 <伊勢、伊勢神宮>
六石四斗三升 河部八幡領
六十三石八斗 国分寺
二十七石 瀧之宮領 <牛頭天王>
二石五斗 菩提寺 <菩提院>
百石 多賀領 <江州、多賀大明神>
九斗 山田宮領 <山田八幡宮>
百石 玉龍院 <京都、玉龍院妙心寺>
百二十石 愛宕領 <山城、愛宕権現>
六十石 白峯領
四石五斗 北条天王領 <崇徳天皇社>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
二石 宇足津弁財天
二石六斗四升 岡田八幡 <上野八幡宮>
五十石 弘憲寺
一石九斗 福成寺
九斗六合 高林寺 <専立寺>
一石四斗三升 奥河津宮領 <庄宮八幡宮>
十八石 見性寺
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
八斗 柞原権現 <素盞大明神>
一石二斗 中分宮領 <會下天満宮>
二十三石五斗 金毘羅領
三百六石五斗 松尾領
一石五斗 大日領 <春日大明神>
九石三斗 まんだらじ <曼陀羅寺>
五十石 誕生院 <善通寺>
四石 下吉田宮領 <八幡宮>
三石 下高瀬八幡
三石 楠井明神領 <新田大明神>
一石 楠井権現領
一石 楠井薬師領
二石 柞原寺
四石七斗 神田宮 <大水上神社>
二石七斗三升 財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗 財田上龍王領
一石四斗 財田上厳嶋之宮
二石一斗 財田中乗覚院 <高橋氏>
一石五斗四升 財田西天神領
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
一石五斗四升 持寳院 <本山寺>
三石 笠岡宮領 <宇賀大明神>
四十石 けんぎょう與 <寳壽院神宮寺
三石三斗 仁保宮領 <賀茂大明神>
一石 覚城院
三石九斗七升 萩原寺
六石六斗 興昌寺


一、御初尾米

切米十石 萩原寺 
切米五石 薬師坊<鞍馬>
切米五石 窪之坊<高野山> 
切米五石 地寳院<高野山>
切米五石 満太夫<熱田>


一、寺領米ニテ渡ス

切米四十石 寒松院 
切米三十石 香林寺




足利幕府の成立は、日本の社会の主人公が、神仏から人間へと移ったことを意味する。織豊政権の成立は、その仕上げといってよかろう。そして、このことは、寺社内部の俗化、真の信仰が姿を消し、凡そ宗教者とは思えない者たちによって寺社の運営がなされていた事実と表裏一体をなしていた。
この時代、全国の寺社の所領は、急減する。一部が、堪忍料のような形で返還されたのみである。後世、これを寄進と称し、有難がる人もいる。歴史への無知である。
然し、何はともあれ、織豊政権の新知大名より、日々の運営費を給された寺社は、有難かったに違いない。これ以降、寺社が、政治に関与出来ない時代が始まるのである。
本書は、豊臣政権の新知大名として赴任した生駒氏が、新たに寄進した寺社領(生駒宗家分のみ。一門衆及び給人寄進分は除く)について、「生駒家家臣分限ノ記」「讃州御国中村切高惣帳」等の史料をもとに表計算データを作成、グラフ化したものである。
生駒氏は、寺社領の没収、そして新たな設定にあたって、まず、支配の円滑を考えたに違いない。然し、敬神崇仏の念もあったであろう。武家の側でも寺社の側でも、人を新たにし、新しい信仰の時代が始まるのである。一書を編んだ所以である。

2012年12月29日土曜日

多度郡生野村

讃州御国中村切高惣帳に依れば、多度郡生野村の総石高は、1077石7斗2升3合であった。亦、当所には、蔵入地や寺社領は設定されておらず、渡瀬武兵衛(弓組)、河田八郎左衛門(森出雲組)、河添甚之丞(生駒將監組)、田村加左衛門(御供番)、田中伊織(母衣組)、宮部右馬之丞(大番組預)、佐々木半右衛門(生駒左門組)、佐藤久兵衞(生駒將監組)、上野作左衛門(森出雲組)といった給人の知行所があった。
合掌。



参考
合田學校訂 「生駒家家臣分限ノ記」   
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_1559.html

2012年11月10日土曜日

合田學著 讃州香西郡志史料篇-1 生駒氏統治時代

























































































付記

讃州香西郡志史料篇-1」は、讃州郡志集成第6巻として、上坂氏顕彰会史料出版部より刊行されたものである。今回、画像データで公開する書冊は、その第三版(2001年12月11日)である。


尚、本書の姉妹編として、以下の書冊が刊行されている。



合田學著 讃州大内郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第三版)
本書は、以下のURLにて、公開しています。
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html
本電子データのネット上での公開は、2012年12月18日を以って、終了致しました。
合掌。


合田學著 讃州寒川郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第三版)
合田學著 讃州三木郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第三版)
合田學著 讃州山田郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 全二冊 (第三版)
合田學著 讃州香東郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 全二冊 (第三版)
合田學著 讃州南條郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第三版)
合田學著 讃州北條郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第三版)
合田學著 讃州宇足郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第四版) 
合田學著 讃州仲郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代  全二冊 (第四版)
合田學著 讃州多度郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (第三版)
合田學著 讃州三野郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 全二冊 (第三版)
合田學著 讃州豊田郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 全二冊 (第四版)

合掌。